「写真にもカテゴリーがある」という話

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私、写真はよく撮るのにインスタはやっていません。インスタユーザーのスマホを拝借して眺めてみると、見ごとにキマった写真が並んでいます。しかし私としては、誰かに見せるためというよりは、自分の記憶の補完として撮影しています。だからインスタジェニックな写真を持ち合わせていないのです。

 

そんな私が撮るような写真は、記録写真などと呼ばれます。風景だろうがランチだろうがお花だろうが、後で見返すために撮り、必要であればシェアする、という感じですね。

 

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これは私がオランジーナをオシャレに飲んだときの写真です。背景が汚いのは関係ありません。あくまでオランジーナをオシャレに飲んだことを記録しているだけですから。

 

一方で、インスタでよく見かける類いのものはアート写真と呼ばれます。主要目的が「記録する」こと以外であれば、それはアート写真だといって間違いないと思います。

 

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http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/062600242/?SS=imgview&FD=1421851125

 

これは私のお気に入りの鳥の卵の写真です。一見、様々な鳥の卵を「記録している」ようにも思えますが、記録のためであればこの並べ方は不要です。鳥の卵の色彩を際立たせる意図が伝わってきますね(ナショジオの写真をこうやって引用していいのか分からないので怖いです)。

 

まあ、たいていはこの二種にカテゴライズできますね。私にはアート写真はちょっと難しくて撮る気にならないのですが、観るのは好きですよ。もちろん、はっきりと区別できないようなものもあるかもしれませんが、あえて分類するなら、ということになります。

 

そのときに気になるのが、わざわざ一眼レフを購入して写真を楽しむ人と、スマホで済ませてしまう人の差がどこにあるのかということなんです。ちょっと前までは、誰もがステータスとして自動車や腕時計に金をかけていたように、ちょっと懐に余裕があれば手を出してしまうのがカメラでした。

 

しかし今では、本気で写真を「作品」として撮る人でないなら、別個にカメラなんて持つ必要はないですよね。本格的なカメラはかなり値が張るのに、同じ値段で時計にも電卓にもなって音楽も聴ける、配車アプリも使えて電話機能付きでカメラにもなるような、なんでもありのスマホでかなりの解像度を実現できています。

 

もし古い価値観で、カメラをステータスみたいに考えているのであれば、もうそれは必要ないんじゃないですか。プロがiPhoneで映画を撮る時代ですよ。残酷なまでに、プロもアマも使っている道具は同じなのです。センスや技量の差がものを言う時代なのです。

 

カメラがカッコいいという価値観は理解できますし、物欲が刺激されるのも分かります。しかしながら、買ってから一ヶ月でもう持ち歩かなくなったというのは珍しい話ではないでしょう。私の周りでも、本格的なカメラを持っている人でガチ勢はほとんどいませんでした。写真を撮るのが好きな人も、カメラを買う前には、スマホでも済ませられるんじゃないか、ということを改めて考えてみてほしいですね。

「正義」なんて視点でしかないって分かってる?

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「嫌いなものは?」と聞かれたら、迷わず「“偽善”です」と答えるようにしています(本当は空気を読んでから判断します)。煽り気味のタイトルで失礼します。

 

突然ですが、絶対的な正義なんて存在しません。アメリカがテロに遭い、正義を掲げてイラクに戦争を仕掛けたのはもう10年以上も前のことですが、あれはアメリカから視た正義です。そして、戦争をふっかけられる覚悟でテロを仕掛けたのは、イラク側の正義なわけです。「俺らってワルだよな」というヤンキー高校生みたいな発想でやっているわけではありません。

 

最近ではISISが世界各地でテロを起こしていますが、もちろん、それも彼らの正義だからやっているわけです。もし「絶対的な正義」なるものが存在しているのならば、ISISに共鳴する人たちは現れませんし、そもそもテロも戦争も起こっていません。

 

彼らは各々で“正しい”と思うことをやり、それが別サイドでは“悪”であり得るわけで、それぞれの視点で何が正しくて何が間違っているのかが異なるわけです。以前に「好き嫌い」と「良し悪し」は別物だという話をしましたが、それと同じで、正義も悪も相対値でしかないのです。「好き嫌い」のように絶対値では測れません。

 

じゃあどうやって世界各国は「環境破壊を食い止めよう」とか「世界平和を目指そう」なんて指標を出しているのかというと、ポリティカル・コレクトネスを中心に考えています。これは差別を是正するための中立的な言語表現のことですが、この「中立的」というのが大事で、この考え方をもとに「環境資源は皆んなのものだから皆んなで守っていこう」だとか、「人の命は平等であって、“各々の正義”で失われていいものではない、戦争を根絶しよう」と発想するわけです。

 

これまで先陣を切って正義を体現してきたアメリカなのに、今度の大統領は「オルタナ・ファクト」なんて言い出しました。これは言うなればポリコレの否定であり、それぞれに正義があるよね、皆んなそれを大事にしようよという考え方です。アメリカファーストを掲げるトランプ大統領としては、そんな指標に縛られてたらオレら損してばっかりじゃん!もう止めるわ!と言いたいわけですね。しかしそれはISISの価値観を認めることにもなり、そのうえで彼らと徹底抗戦しようなんて矛盾しています。トランプ大統領としては、自分たちの正義が「絶対」なのかもしれません。

 

これがまかり通るのなら、誰もが自由に振る舞うようになるでしょう。そうやってアメリカが言い訳をし出したことで、今まではワガママに振舞っていた中国がリーダーを気取ってCO2削減や一帯一路なんてやり始めたから面白いですね。ともあれ、世界の共通ルールとしてのポリコレが廃れてしまったわけではないようで安心です。

 

脱線しましたが、最近の日本人のイデオロギー闘争は目に余りますよね。ただ人種差別であり、陰謀論で相手の品位を貶めたり、人格攻撃をしてみたりと、まともな教育を受けられない国の出来事を見ているようです。アメリカ大統領がオルタナ・ファクトと言いながら自分の正義を絶対視しているように、日本人も多様性を認めるのは大事なことだと思いながら「絶対に相手が間違っている、自分たちが正しい」と思い込んでいるようです。

 

この「絶対」がある限り、議論は建設的なものにはなりません。ただ相手を否定して傷つけたいだけであればそれでいいでしょうが、右の人も左の人も、そんなことのために正義を主張したいわけではないでしょう。あくまで多様な考え方があるという前提があり、より良い方向を目指していけるように話し合うのが議論というものです。いい加減、感情論の掛け合いは醜いのでやめたほうがいいと思いますよ。

 

今日はこの辺で。

「普通の人」と「変わった人」は何が違うのか

とうとう更新が一週間以上空いてしまいました。最初の目標は1日1本、それが週に2〜3本になり、今では「できるだけ更新しよう」という感じです。目標は高く持ちましょう。

 

先ほど、「普通の人なんていない」なんてことをおっしゃってる方がいたので、それについて考えてみましょう。

 

いきなり言いますが、所詮は皆んなただの人間です。でもこれはあくまでマクロ視点であって、議論中にこれを言うと論点ずらしだと指摘されることでしょう。ただの人間なわけですから、一人ひとりにできることなんて限られているわけです。

 

しかし、実際にはスゴイ人もいればどうしようもないクズみたいな人もいるわけで、人間は均質ではありません。「あの人はデキる人だよね」とか、「アイツなんのために生きてるんだろ」という差異は、ミクロで見ていけば当然のように出てくるわけです。

 

じゃあなぜ日常生活で、「あの子は変わってる」なんて認識の違いが出るのでしょう。言ってしまえば皆んな変わってるし、皆んな普通の人のはずなのにです。

 

それは、多くの人が普段は「普通の人」のように振舞っているからです。そして、「普通の人」として振る舞いきれない人が、「変わってる人」という評価を下されることになります。

 

「変わってる人」なんて思われたら生きづらいというか、まっすぐ生きていけないんじゃないかという不安は多くの人が抱えていることでしょう。そう思われることが、嫌われるのと同義だと感じている人もいるかもしれません。

 

しかし実際には、普通の人として振る舞う必要がないぶん、「変わってる人」は自適に生きています。その外界に対する適応が面倒で、自分の「変わってる部分」を維持したまま生きているという人も多いはずです。

 

何か生きづらさを感じることがあれば、思い切って「変わってる人」になってしまうというのはいかがでしょうか。ちなみに私本人は、よくクセがあるなんて言われますが、生きづらいと思ったことはありません。無理に均質化せず、悠々と生きております。

 

短いですが、今日はこの辺にしておきます。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

【書評】『トウガラシの世界史』〜世界で愛されるピリピリの由来

Kindle版がないのは残念だが、久しぶりに中公新書を楽しく読めたので紹介したい。

 

本書はトウガラシがテーマの本であり、著者が言うように、学術的な引用にも耐えられる仕様にはなっているのだが、もっと気軽に、単純に世界史として楽しむことも可能である。

 

 

本書で取り上げられるのは、原産である中南米(一章、二章)、欧州のイタリアやハンガリー(三章)、アフリカのエチオピア(四章)、アジア系のネパールやブータンインドネシア(五章)、中国(六章)、韓国(七章)、日本(八章)で、かなりの広域をカバーしている。そのおかげで、トウガラシを通して同じ時期にどこの国でどんな出来事があったのか、またどこかの国で起こったことが他国にどう影響を与えたのかなど、世界史の醍醐味を堪能できるのだ。

 

たとえばハンガリーを取り上げた第三章にはこんな記述がある。

 

“今でいうハンガリー料理が成立したのは、十九世紀後半から二十世紀にかけてであるとされる。先述したように、辛くないパプリカが出現したのはこのころのことなので、それが人気を得て、それと軌を一にして、パプリカが普及していったのかもしれない。さらに、料理の本も普及するようになり、地方料理や創作料理も本を通じて各地に広まっていったことも考えられる”

 

この章ではハンガリーがパプリカの原産地であることが分かるのだが、この十九世紀後半は、まさに第二次産業革命の真っ只中であり、それに伴って印刷技術が飛躍的に向上した時期でもある。パプリカはそのころに誕生したのだ。そしておそらく、それが料理本の普及を助け、“パプリカぬきのハンガリー料理は考えられないほど”に、食文化を変えたのだろう。

 

また、世界史だけでなく、食文化の本としても楽しめるかもしれない。先ほど取り上げたハンガリー国民食は、「グヤーシュ」というタマネギとパプリカの入ったラードを使い、小さく切った牛肉とジャガイモを具材にしたスープだという。

 

私はアフリカの食文化にはまったく造詣がないのだが、本書の口絵には、カラー写真でエチオピアの「インジェラ」と「ワット」という料理が紹介されている。インジェラは簡単に言えばパンのようなもので、それに付ける副菜がトウガラシがよく利いたワットなのだそうだ。

 

他にもトウガラシを通して、イタリアのカラブリア地方の名物料理である「ンドゥイヤ」、カレー、麻婆豆腐、キムチなど、馴染みがない料理を知り、また馴染みのある料理の歴史を知ることもできる。

 

トウガラシといえば、また辛さの記録が更新されたのは記憶に新しい。

 

St Asaph man develops weapons-grade chilli so hot it could KILL you - Daily Post

 

このドラゴン・ブレスは248万スコヴィル(以下Sc)もあるらしい。作った本人も舌の上に小片を乗せる程度に止めておいたそうで、それでも焼けるような痛みがあったという。

 

上記のリンクは今年5月の記事だが、今回超えられたのは、2013年にギネス認定された「キャロライナ・リーパー(220万Sc)」というトウガラシだ。そしてそのキャロライナ・リーパーが上書きしたのは2011年の「トリニダードスコーピオン(146万Sc)」だから、トウガラシの世界では今でも2、3年ほどで辛さの記録が更新されるらしい。

 

ちなみにその前の「ナーガ・ヴァイパー(2010年、138万Sc)」がヘビ、スコーピオンはサソリ、リーパーが死神で今回がドラゴンだから、次はどう名付けられるのか楽しみである。

 

そういえば、本稿の副題に付けた「ピリピリ」は、辛さのことではなく、スワヒリ語でトウガラシの意だ(P.101より)。なんとも分かりやすいネーミングである。この日本語に通じる表現が、世界共通で愛されている証拠であると思うのは私だけだろうか。

私の電話遍歴

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電話嫌い歴15年の谷です。この年月の長さに免じて、電話越しに伝わるぶっきらぼうをどうか許していただきたい。喜べるのは、好きな人からか(いつでもOK。最優先事項です)、親しき人からの久しぶりの電話くらいなものです(あくまで「久しぶり」。頻度が高いと嬉しくない)。それ以外はもうなんなんだよと思って出ています。ウソです。そもそも出ません。いちおう言っておくと、着信するだけで記事を読んでいたら急に画面が暗くなり、さらに聴いていた音楽が止まったりしてすでにウザさMAXですから。そのまま拒否登録してやろうかという衝動に駆られます。

 

「緊急の要件は電話で」などというもっともらしい意見も、電話を取らない私には通用しません。そのせいで「え、着信?なんの用だろう」と要件が分からず、後からテキストで「何かありましたか?」と確認するハメになります。最初からメールしてくれたほうが効率的です。少なくとも私に対しては。

 

そんなベテラン電話嫌いの私も、幼き頃は大人のマネをして積極的に電話に出ていた記憶があります。懐かしきイエデンの話です。何年も使った覚えがありません。そして年齢が二桁に達する頃には、すっかり電話を取らなくなります。

 

なぜかって、親がケータイを持ちはじめ、イエデンにかかってくる知らない番号は、ほぼ勧誘や販売営業であると確定したからです。はじめのうちは「もしかしたら」と思って出ていたのですが、だんだんと自分に関係のない電話に出るのが嫌になり、知り合いかもしれないという可能性を捨て、ついに番号の確認すらしなくなります。

 

それからは、小学校高学年で親のケータイをしばらく持たされる経験をしまして(親からの緊急連絡用)、すぐ後に中学でマイケータイを与えられます。ケータイショップにて、普通のがいいと言っているのに、親に無理やり簡単ケータイを選ばされた屈辱は忘れられません(有害サイトのフィルターが決め手だったのでしょう。年頃なのにいい迷惑です)。

 

こうして個別に電話を持たされると、いよいよ知らない番号からかかってくることはなくなります。もしかかってきたとしたら、間違い電話か迷惑電話、電番が変わった知り合いとか、そのへんです。つまり、もう着信を無視しても問題なかったわけです。

 

電話番号を登録している友人とも電話はしません。そもそもeメールでやり取りできるし(番号だけ交換する、ということはまずありませんでした)、非同期型の通信に慣れてしまえば、そもそも電話しようなどとは思わないです。幼少時からから趣味に勤しんでいた私は、中学には最盛を迎えており、モンハンやトレーディングカードゲームをはじめ、ギターの練習に明け暮れていました。当然、同期型通信たる電話などしている暇はありません。「着信あり?後でメールしとくか」。

 

大学生の時には念願のスマホ使いに転身。TwitterやらFacebookやら物理演算ゲームなどを遊びつくします。電話はほとんどしてません。契約や確認の際に電話が必要だと、「電話しなきゃいけないの?じゃあいいや」というスタンスを徹底しており、「電話が苦手だと社会に出てから困る」などと親にしつこく言われます。

 

いや、苦手じゃなくて嫌いなんだと説明しても、そんなのどっちも同じだと言われ、話の通じなさにイライラしはじめます。スマホって通話に向いてないよなもう電話って時代遅れじゃね?などと思いながらも、社会人の慣習を知りませんから、これから先に本当に困るのかどうか分からず悶々としていました。そしてやはり、この頃から「電話ウザい」という論調がネット界に出回ります。スマホ持ちが増えてきた結果ですかね。

 

その論調に激しく同意しつつも、それは割と情報に強い人たちというか、イノベーター理論で言うところのイノベーターたちにしか通用しない話でした。それでも、自信を持って「電話ウザい」と言えるようになりましたから、大きな進歩です。電話ってウザいですよね。

 

それからだいたい五年くらいが経過したでしょうか。NHKニュースでも取り上げられるくらいには、電話嫌いに対する理解は深まってきたようです。

www3.nhk.or.jp

 

電話が同期型通信である故に、こんな論理も展開されます。

 

ホリエモンは著書でこんなことを言っています。

 

“全時代の感覚にとらわれている人は、コミュニケーションというのはお互い同時間に行う同期通信でなければ意図が伝わらないと盲信している。

 

そういう人が僕の電話を平気で鳴らし、人の仕事のジャマをするのだ。

 

(中略)悪気なく電話を鳴らしてくる時点で、僕はそんな人とは一緒に仕事をしたくない。電話でしかやりとりできないような人は、僕の時間を無駄に奪う害悪だ。”

 

『多動力』より

 

良い感じにまとまったエントリーも見つけたので、ついでに貼っておきます。

www.captainjack.jp

 

もうすっかり嫌われ者ですね。この価値観も、NHKで取り上げられた時点でアーリーアダプターには達したんじゃないでしょうか。達していてほしい(願望)。

 

まあ、いまだに電話は必要なんだと言っている人たちもいるわけですが、それってしなくてもどうとでもなるよね?という理由しか散見されず、電話はますます使われなくなっていく予感がします。嬉しい限りです。

 

せっかくなので、最後に私が電話を嫌いな理由をまとめておきましょう。

 

・声だけのコミュニケーションが面倒。内容が分かりづらい時にはかなり神経を使う。文面ならすぐ分かるのに

 

・かけられた側が相手の時間に合わせなければいけないという迷惑。一回のメールのやり取りで済む内容だったりすると、着信のせいで作業を中断させられた側としてはかなり後味が悪い

 

・メールと違って記録が残らないから伝達手段として力不足。通話しながらメモとかマジに面倒

 

・一回の通話で解決できなかった時のやり取りの多さが非効率。最初からメールで情報量の多いやり取りをしておけばいいのに

 

・耳に当てると画面が汚れてウザい。ガラケーを使ってる時もそうだったし、スマホが主流の今ならなおさら。大抵は急にかかってくるから、ハンズフリーで電話を取れることもほとんどない

 

以上、懸命の電話嫌いアピール、ではなく、私の電話遍歴でした。これからは、誰かに電話する時に私のような人が増えてきていることを考慮していただければと思います。

【書評】『モチベーション3.0』~なんのためのに働くのか

 

 

 

本書は人間の仕事に対する“やる気!”をいかに引き出すか、という内容に終始している。タイトルにある「3.0」とはバージョンのことで、著者のダニエル・ピンクは人間の仕事に対する動機が時代とともに移り変わっていること、または移り変わっていく必要があると指摘しており、巻末には個人と組織それぞれに向けた“やる気!”を引き出すためのノウハウが収録されている。

 

1.0は「生存のためにどうしてもやらざるを得ない」という理由、2.0はアメとムチの動機づけ、つまり外発的な報酬がモチベーションになっている状態を表し、3.0は内発的な報酬が原動力になっていることを表す。内発的な報酬とは自己実現のことだ。簡単に言えば、自分がしたいことをするということである。自分のしていることに自ら喜びを見いだし、進んで行動するのだ。

 

マズロー欲求のピラミッドを知っている人には、これは当然のように思えるかもしれない。ピンクの分類によるこのモチベーションの“バージョンアップ”は、分かりやすくピラミッドのヒエラルキーを下から上へと目指している。

 

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http://keishixx.com/archives/3028

 

この図で言えば1.0は生理的欲求を、2.0は安全の欲求や親和の欲求を、そして3.0ではそれより上の欲求を満たす。時代とともに人間は欲求を満たせる環境を作り上げていった結果、何が仕事の動機になるかも変わっていったのだ。本書で紹介されるマイクロソフトMSNエンカルタウィキペディアの事例が良い例である。

 

外発的動機づけが主流であり、マイクロソフトWindows95がリリースされた頃には、まさかプロが報酬を得て作った辞書が、多くの素人によって、しかも無償で執筆されている百科事典に負けるとは誰も思っていなかったはずだ。金をもらえるわけではないのに、ウィキペディアは今なお“ボランティアたち”によって改良され続け、かたやMSNエンカルタはプロのライターや編集者に依頼し、多数の項目を有料で執筆してもらっていたのに、2009年に15年間続いたサービスを終了したのだ。

 

ヒエラルキーになぞらえれば、ある程度以上の金を稼ぎ、生活が安定、会社や社会に所属しているという欲求が満たされた結果、それ以上の欲求を求めて、自分がやりたいことをする人が増えたということだ。金銭的なインセンティブがあるからといって、あるいは何か罰を受けるおそれがあるからといって人々が仕事に励んでくれるとは限らないのである。そしてオープンソースが台頭した今日では、ウィキペディアに代表される内発的動機づけを利用したモチベーションのマネージメントが主流になりつつあるのだ。

 

“たとえば、自宅のコンピュータを立ち上げてみよう。ウェブサイトで天気予報をチェックしたり、スニーカーを注文したりするとき、ファイアーフォックスという無料のオープンソースのウェブブラウザを使用しているかもしれない。これは、ほぼ例外なく世界中のボランティアによって作成されたものだ。自分の製品を無料で提供する、無償の労働者だって?(略)そんなインセンティブなどありえない。(略)ところが現在、ファイアーフォックスのユーザーは一億五〇〇万人を超える。

 

(中略)

 

それは、世界中の何十万というソフトウェアのプロジェクトに限ったことではない。今では、オープンソースのお料理レセピー、教科書、自動車デザイン、医療研究、(判例集などの)訴訟関係資料、写真集(略)まで見つかる。”

 

ある調査によれば、こうしたオープンソースに携わっている人たちは、様々な動機でプロジェクトに参加しているものの、“楽しいからという内発的動機づけ、つまり、そのプロジェクトに参加すると創造性を感じられることが、もっとも強力で多くの人に共通”しており、また別の調査では、“かなり高度なソフトウェアの課題克服する楽しみ”や“仲間のプログラマーの世界に貢献したいという欲求”が動機になっていることも分かった。

 

インターネット無くして仕事が成り立たなくなっている現在ではもちろん、今後はシェアリングエコノミーが台頭するはずだから、ますますオープンソースでの仕事は増えていくだろう。そうなった時に求められるのは、内側から湧いてくる意欲であって、少し前まで当たり前だったバージョン2.0のモチベーションではないのである。

 

蛇足だろうが、本書の原題は『DRIVE』で、これは「やる気」を意味している。「モチベーション」と「ドライブ」は語感的にも近いらしいが、前者はどちらかと言えば「動機」という意味が強く、後者はエンジンがかかった状態のような、継続的なやる気を表しているようである。例えれば点と線のようなものだろう。タイトルには日本人に分かりやすい「モチベーション」を使い、副題には“持続する「やる気!(ドライブ!)」をいかに引き出すか”と「ドライブ」を持ってきたのにはそういう意味があるかもしれない。

「好き」と「良い」の違いを知ると理解が深まります。いろいろと

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ブログを再開してSNS利用時間が減った谷です。もう少し実のあるアウトプットを、という心がけが芽生えてきました。

 

女子たちに「これ良くない!?」とか言われると、「いや、良いかと言われるとそんな気もするけど、もう少し検討してみなきゃ分からないかな」と言いたくなるのを思い留めて、結局は「あー、良いかもね」とにべもない返事をします。何故かって、「良い」ってよりは「好き」なだけでしょう?という話だからです。

 

これは絶対値と相対値の違いなんですよ。好き(嫌い)と判断するのに理由は要らないですが、良い(悪い)と判断するためには、何と比較してどの部分が優れているのか(劣っているのか)という視点が必要だということです。 もっと一般的に、主観と俯瞰の違いだと言うこともできますね。

 

実際の話、「わたし、これが好きなんだよね」と言われるよりは「これ良くない!?」と来るほうが話は盛り上がるんですが、この「好き嫌い」と「良し悪し」の違いを理解しているのとそうでない場合とでは、何かコンテンツを消費する時に得られる経験値が違ってくるんですよ。それに、そうやって消費されればコンテンツを作る側にもメリットがある。

 

例を挙げてみましょう。Aという男性の役者がいたとします。彼は若手のイケメン俳優です。多分にもれず、若い女子たちに「イイよね!」と言われ、少女漫画原作の恋愛映画に出演しまくりです。しかしAは、若い女子たち以外にはあまり認知されていません。何故でしょう。

 

それは、別に「良く」ないからです。若い女子たちはAがカッコいいから「好き」ですが、役者としての評価が特別に高いわけではないのです。でもAの所属事務所としては、若い女子たちの「好き」を糧にしてAを売り出しているわけですから、Aの演技の評価が低くてもいいわけです。そして女子たちは、事務所に搾取されていることなんて知りもしません。というか、自分たちだけで盛り上がっている時点で、この俳優が飽きられたら、また事務所がルックスだけで俳優を雇うようになったら、これは事務所(芸能界)の質の低下を招きますから、持続性がありません。

 

それではここで、女子たちが「好き」と「良い」を区別するようになったとしましょう。

 

「Aって顔は良いけど、演技がね…」

「そうそう。顔だけならAのが好きやけど、演技力も考えるとBのほうがええかな」

 

Bもイケメン俳優として売り出していますが、彼の売りはルックスよりはむしろ演技力、ということにします。女子たちがこのように自分たちの「好き嫌い」と俳優の「良し悪し」を区別し、俳優を正当に評価するようになれば、Aは演技力を磨かざるを得なくなるでしょう。そうやって俳優を評価することで彼女たちは演技を観る目を養い、また俳優には向上心が生まれます。

 

消費者として、「この人はルックスだけで売ってるんだ」という事務所の意向に気づくようになれば、無駄な消費を避け、賢い選択をできるようになり、また売る側も消費者をバカにしたようなコンテンツを作ることが損になると分かり、持続性を大事にするようになるでしょう。そして、「生産者側の思惑を知る」という構図を、様々な消費に応用できるようになります。こうしてますます賢い選択をしながら生きていけるようになるわけです。

 

話が飛躍したような気もしますが、言いたいのは、「好き嫌い」だけでものを見ていれば搾取されるし、商品の提供者側もそれに合わせて質の低いコンテンツを量産するので、消費者にとっては損でしかないということです。自分の目を養うためにも、好き嫌いと良し悪しを意識してみてはいかがでしょうか。

 

ヒップホップが作業用BGMとして優秀であるとちょっと前に気づきました。あまり興味ないから聞き流せるのかもしれません(あまり興味ないのにノれるんですよね)。

 

www.amazon.co.jp