【書評】『騎士団長殺し』〜輪廻する業

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

初っぱなから第一部で70万部、第二部で60万部を刷り、書店ではカウントダウンイベントも行われたのだから、やはり彼の作品に対する人々の期待は大きかった。

  

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本人には不本意でも、ノーベル文学賞の候補として名前を挙げられるのは仕方のないことだ。私はいわゆるハルキストではないから、「よし、発売日にすぐ買って読もう」とか、そういう盛り上がりはなかった。とはいえ、発売から一週間ほど経った時に書店へ寄る用があったので、結局は一番目立つ場所に平積みされた今作を買うことになった(というか、一番目立つところのさらに奥へ行ったところと、文学のコーナーと三箇所くらいに並べられていた。さすが村上春樹である)。

 

率直に、面白かったと思う。文章のリズムの良さはいつものこと、すいすいと項を捲ってしまえるような、物語としての面白さがあった。前回の本格長編『1Q84』はあまり受け付けなかったから(読み切るまでずいぶんと時間がかかった)、そんなに夢中になって読んだのは、彼の作品では『海辺のカフカ』以来である。主人公の身に起こったこと、これから起こるであろうことすべてが、読み手の我々が心の内側で経験したことのあるような、生きていくことの難しさを落とし込んだような仕上がりだ。


主人公は画家で、『騎士団長殺し』という絵に出会ってから不思議な経験をすることになる……というと、やっぱり村上春樹だと思うだろう。彼の描くストーリーでは、主人公はいつも不思議な体験をする。

 

物語で主人公は一通りの試練を乗り越え、自分の中にあるコンプレックスを解消したはずなのだが、同時に、これからやらなきゃいけないことも分かってくる。そしてそれは作中では解決しない。そこで我々は第一部に戻り、「プロローグ」にどんな意味があったのかを知るのだ。この作品を読んでいれば、主人公が今度どのような試練を与えられ、どう向き合っていくのかをイメージできるような仕上がりになっているのである。読者はまるで輪廻を体験しているような気にさせられる。

 

もちろん文学的というか、比喩的な側面の面白さもある。今回はわかりやすく仕上がっていると感じた。何せ「イデア」はしゃべるし、主人公に襲いかかってくる敵は「二重メタファー」なのだ。

 

シンプルに考えて良いと思う。イデアはもちろんプラトンの言っていたあのイデアだし、二重メタファーはそのまま、暗喩の暗喩だ。「暗喩の暗喩」なんて“ナゾナゾ”みたいだが、意味としては「本質から遠ざかってしまうこと」だろう。主人公がなんとか二重メタファーから逃れ、問題を解決しようとする姿は、それこそ問題の本質に近づこうとしていることのメタファーなのだ。そして問題の本質は、油断をすると見えなくなってしまうような、記憶の中にかすかに残っている心の声だ。それを聞き逃してしまうことが、本作で二重メタファーに呑み込まれてしまうことの意味である。

 

だから主人公は、あくまでも内省的に自分の記憶をぐるぐると歩き回るし、その道筋は具現化したイデアのヒントから導く。そして主人公が絵を描くのは記憶の補完であり、道筋を照らすための作業なのである。問題を解決していく中で、次にすべきことが明らかになり、主人公はまた苦難を経験することになるだろうことが想像される。それはプロローグで示唆されるように、『騎士団長殺し』を描いた画家の追体験になるのだろう。

 

そして最後には、主人公の子供が登場する。今までの作品ではあり得なかったことだが、ここでメインテーマが「輪廻」なのではないかと思い至った。主人公が『騎士団長殺し』を描いた画家の業を経験し、その子供がまた業を繰り返す。もちろん憶測の域は出ないのだが、私にはそう思わずにはいられなかった。

科学の見解が「考え方の一つ」という風潮

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節子、それ科学やない...! 進化論がトルコの教科書から外されることに|ギズモード・ジャパン

 

昨日のギズモードの記事ですが、タイトルの通りです。

 

教科書に載せないと言っても、自然淘汰とか複雑すぎるし、大学に行くまでは難しいから教えないでおこう、という方針らしい。それどころかトルコの副首相が、“古びて”おり、“十分な証拠に欠く”などと言っているらしく、最近のアメリカを見ている気分です。

 

それで高校生までは、創造論を教えるそうです。というか、もともと高校一年生まで教えてないし、今回あらためて、高校でもまだ早すぎるという結論に達したのだそう。親の要望も強かったとか。

 

この方針が記事中にもあるエルドアンイスラム回帰と関係あるのかどうかは置いておいて、世界中でオルタナ・ファクトが主流になりつつあるのを感じますね(なんだか矛盾したような言い方ですが)。科学って普遍的なものじゃなかったっけ…。

 

創造論を科学で否定するのは難しいですが、同じように「肯定する根拠」もありません。人はそういったものをオカルト、あるいは陰謀論と呼びます。もちろん、それを信じるのは個人の勝手なんですが、国の教育方針としてどうなのかと問いたい。教育方針以前に、事実を知る権利は何にも変えられません。その事実をどう扱うのかが教育の腕の見せ所であって、それはファクトありきの話です。その前提を奪ってはいけないでしょう。

 

最近は我が国でもイデオロギーの対立が激しくなってきて、陰謀論めいた報道があちらこちらで流れているんですが、はっきり言ってこんなもの全部フェイク・ニュースです。個人がそれぞれどんな考え方をしていようと勝手ですが(2回目)、メディアが「事実」ではなく「考え(疑心)」を好き勝手言うようになったら終わりでしょう。マスコミだろうがバイラルメディアだろうが、仕事は事実を伝えることのはずです。科学=ファクトであることを考えれば、これまた科学を無視していることになるわけですよ。「事実」と「考え(主張)」は別物です。よく覚えておきましょう。

 

マスコミは今いちど、慰安婦問題や血液型性格診断(という名の差別)を信じている低リテラシー層を量産した罪を反省すべき。

 

そんなことより、最近はこれにハマってます。

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私が産まれてからまだ半年も経ってない頃にリリースされたアルバムですが、カッコいいです。リンク先はアマゾンですが、もちろんSpotifyで聴いています。カッコいいから有名に違いないが、Spotifyがなきゃ知ることもなかった。ありがとうございます。

【書評】『依存症ビジネス「廃人」製造社会の真実』〜きっかけはすぐそこにある

依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実

依存症ビジネス――「廃人」製造社会の真実

自分は依存症とは無縁だと思っている人は意外に多いかもしれない。あるいは、ソーシャルゲームをプレイしている人は、自分のことをなんとなく「依存症」と呼んでいるかもしれない。

 

本書に登場する何らかの依存者たちは、何かのきっかけでアメリカの「依存症ビジネス」に取り込まれてしまった「患者」である。

 

“私は1990年代後半に、頭がよく、チャーミングで、強い社会的野心を抱いた2人の若者ーーロビンとジェイムズーーと知り合った。

(中略)

大学を出たあと、2人は、努力を必要としない仕事から仕事へと渡りあるいた。その過程で、パブリックスクール出身の飲兵衛たちといっそう多くの時間を過ごすようになり、そのつきあいを通して習慣性の高い非合法薬物にも手を出すようになる。”

著者はこうした人たちを苦しめているのが、依存症を「病気」として扱うせいだという。そして同時に、依存症は病気ではないのだと主張する。

“「依存症は、脳内の報酬、動機、記憶、およびそれらに関連する回路における原発性の慢性疾患である」と、ASAM(※1)は宣言する。

(中略)
  依存症は、一貫して自制する能力の欠如、行動を制御することにおける障害、渇望、自己の行動および対人関係の及ぼす重要な問題に対する認識能力の低下、および情緒的反応の機能不全によって特徴づけられる。
  他の慢性疾患と同様、依存症には、しばしば再発と寛解のサイクルが伴う。治療あるいは回復への取り組みを行わなければ、依存症は進行し、障害あるいは早死にをもたらす可能性がある。

だが、彼らの定義が隠しおおせなかった事実ーーむしろ意図せず露呈してしまった事実がーーある。それは、依存症は、あまりにも複雑な現象であるため、癌や結核が疾患であるのと同じような形で疾患として分類することはできないという事実だ。ゆえに、こんな無駄口をたたくはめになる。”
※1.アメリカ依存学会の略称

 

先ほど引用したロビンとジェイムズは、著者が出会った中でも「もっとも立ちなおる見込みのない依存者」だったようだが、ロビンは著者のもとを離れてから五年後には、ガールフレンドと生まれたばかりの子供、ソーシャルメディアの仕事に就いて、家のローンを支払えるようになったという。それも、依存症を病気だと決めつけている人たちが提唱した治療法に頼らずに。

 

“「ぼくのホームメイドの更生は、時間がかかるやっかいなプロセスだった。失敗もしょっちゅうだったしね。だが、結局のところは成功したよ」”

 

そしてもうひとり、ジェイムズはマンションから飛び降りて自殺したという。本書を通して著者が主張するのは、依存症は自分の意思で治せるということだ。そして、おなじみのアルコールやギャンブル、ドラッグだけではなく、第4章「お買い物とヘロインとお酒の共通点とは?」や第5章「スイーツはもはやコカインだ!」など章を分けて、カップケーキやショッピングなど、我々の身近に依存症へと誘う危険が蔓延していることを教えてくれる。

 

きっかけはどこにあるかわからないのだ。しかし本書を読めば、少なくともそれが身近に潜んでいるということはわかる。自分は依存症とは無縁だと思っている人にこそ、強くお勧めしたい一冊である。